木々のささやき 342号

人としてのやさしさを大切にする

 素心学塾25周年記念誌”素心の譜”には「義を見てせざるは、勇なきなり」というタイトルで池田繁美塾長のエピソードが二つ紹介されています。塾長は、これが素心学の真髄ですとおっしゃられています。

 一つは無賃乗車した老人をつかまえ、馬乗りになって老人の腕をねじ上げている駅員に対して「そこまでしなくても」と勇気をもって間に入って行動されたこと。もう一つは路上の浮浪者をだまって見過ごすことができず、路上のお金入れにだまってお金を入れられたことが紹介されています。そこには、目の前にいる立場の弱い人を見て見ぬふりはできないという塾長のやさしさ、情け深さが根底にあると思われます。

 上の二つの話に対して私だったらどうしたかなと考えてみると、無賃乗車したのだから悪いのは老人であり、仕方がないと思いながら、駅員と老人とのやりとりを遠巻きにながめている一人であっただろうと思いました。また浮浪者に対しても何も気にとめず、その前を通り過ぎていたと思いました。人に対する”やさしさ”に欠けていると反省しました。「勇気」や「寛容」といった徳目にも欠けていると言わざるを得ません。

 素心学の中で思いやりとは、「周囲に人に不快さを与えない、安心と喜びを与えること」と学んでいますが、塾長の上の二つのエピソードは”思いやり”を超えた、人間としての”やさしさ”だと感じました。人間として本来持っている”やさしさ”がそのまま行動となってあらわれたものだと思われます。

 先日の素心学塾勉強会で塾長は、「弱い人をだまって見過ごすことはできません」「正論がいちがいに正しいとは言えません。人には”情”というものがあります。その”情”をもって人と接していくことが大切です」と述べられました。

 一 理屈ではない、目の前に気の毒な人がいたら何らかの手を差し伸べたい。それが、人の”情”です。一 とも”素心の譜”には書かれています。

 さらに塾長は無賃乗車した老人にかわって運賃を支払い、財布の中にあったいくばくかのお金を老人の手に握らせて「これで温かいものでも食べて」とやさしく言われたそうです。

 人としてのやさしさ、”情”こそ私が学ぶべき素心学の最高の到達点に他ならないと思いました。またこれらは、純粋な心のあらわれだと思いました。

 

 

2019年7月 342号より 芳野 栄